愛すべき「ムダ」について
「ムダ」は随分愛されなくなってきた。
少し昔まで「ムダ」は愛されていたらしい。
タバコを吸うムダ、ギャンブルをするムダ、若くからマイカーを持つムダ、結婚をするムダ。
『ねぇ、それって意味なくない?』
その一言で「ムダ」は嫌われていく。
きっと「社会」に余裕がなくなってきた証拠だ。
余裕がなくなると「社会」は効率化を図る。
「ムダ」を剥ぎ取り、必要最低限のモノだけを許容するようになる。
許容されなくなった「ムダ」達は、ルールやマナーといった見えない圧力で抑圧されていく。
まるで、「ムダ」をしている人は悪人かのように。
これから私たちは、小さくなっていく「社会」からはみ出ないように縮こまって生きなければならない。
そしていづれ「食う」「寝る」「働く」以外の事は許されなくなっていくかも知れない。
「ムダ」は人が創り出した余白である。
余白の無い人生、余白の無い社会はきっとつまらない。
そもそも、この文章もひどく「ムダ」である。
けれど「ムダ」が一番楽しいのだ。
もう少し「ムダ」を愛してあげる社会でもいいのでは無いだろうか。